明治維新とドイツ帝国
広報部長 稲留 康夫
日本の江戸幕府とドイツのプロイセンが、1861年1月24日に日普修好通商条約を締結した後、日独両国は、歴史的な変革の時代に突入します。日本では、日普修好通商条約調印から6年後、江戸幕府の最後の将軍徳川慶喜が「大政奉還」を申し出て、264 年続いた江戸幕府に終止符を打ちました。幕府を打倒した新政府は、王政復古の大号令を発し、翌1868年に明治と元号を改め、明治維新を迎えます。そのころ、ドイツでも新しい時代が始まります。1862 年、プロイセン国王ヴィルヘルム1世は、オットー・フォン・ビスマルクをプロイセンの首相に任命します。ビスマルクは、最初の演説で、「今日の大問題は、演説や多数決が決定するものではありません。 鉄と血が決定します。」と語りました。ビスマルクが鉄血宰相と言われる所以です。そして「今日の大問題」とは、ドイツ統一の問題でした。プロイセンはその後、1864年の対デンマーク戦争、1866年の対オーストリア戦争、そして1870年から1871年にかけての対フランス戦争で勝利し、武力でドイツ統一を実現します。ドイツ帝国の建国宣言は、1871年1月18日、占領したフランスのヴェルサイユ宮殿で行われました。日本の明治政府は、ドイツが統一された年、1871年(明治4年)11月から1873年の9月にかけて、岩倉使節団を米国と欧州各国に派遣します。この岩倉使節団は、総勢107名の大使節団で、明治の日本をリードする大久保利通、木戸孝允、そして伊藤博文も含まれていました。使節団は、ベルリンでドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見し、ビスマルクの歓迎を受けます。ビスマルクから深く感銘を受けた大久保利通は、ビスマルクの事を「我が師」と呼ぶようになります。明治の日本は、ドイツから多くを学びます。岩倉使節団の副使であった伊藤博文は、憲法調査団の一員として、1882年に再び訪独します。伊藤博文の使命は、日本の憲法を制定する為に、欧州諸国の憲法を学ぶ事でした。そしてベルリン大学の教授であったルドルフ・フォン・グナイストからドイツ国法学を学びます。また当時、在独日本大使館の顧問であった法律家アルベルト・モッセからも講義を受けます。アルベルト・モッセは、その後日本政府に招かれ、訪日し、すでに日本に招聘されていたドイツの法学者ヘルマン・レスラーと共に、明治憲法の制定に、大いに貢献します。大日本帝国憲法は、いわゆる欽定憲法ですが、それはプロイセンの憲法を参考にしたものでした。医学においても、日本はドイツから多くを学んでいます。すでに1869年(明治2年)、新政府は、ドイツの医学導入を決定します。そして1871年、外科医で眼科医でもあったレオポルト・ミュラーや内科医のテオドール・ホフマンを日本に招きました。この二人は、日本の医学教育制度を整備しました。そして1876年、エルヴィン・フォン・べルツが訪日します。ベルツは、29年に及び日本で医学を教えます。そのベルツは、日本の明治維新を見て「日本は、10年ほど前までは封建制度の国であった。ところが、欧州が500年もかけて築き上げた成果を、即座に吸収しようとしている」と語ったそうです。
明治の頃、ドイツで医学を学んだ日本人女性がいました。高橋瑞子です。彼女は、すでに日本で開業医でしたが、ドイツで産婦人科学を学ぶために私費で留学します。
当時のドイツでは、女性が大学で学ぶ事は許されておりませんでした。1900年に、南西ドイツのバーデン大公国が、初めて女性の大学入学を許可しました。そしてプロイセンで女性の大学入学が認められたのは、1903年の事でした。ところが高橋瑞子は、ベルリン大学の特別の計らいで、1890年から聴講生として、大学で学ぶ事が出来ました。つまり、ドイツで最初の女子学生は、実は日本人女性でした。また、ドイツは、日本陸軍の改革にも大いに貢献しました。日本陸軍は、旧江戸幕府がフランス軍に範をとりましたので、元々フランス式でした。ところが1870年から1871年にかけての普仏戦争で、プロイセン軍がフランス軍を圧倒しました。
それを知ると日本は、陸軍を全てドイツ式に改めます。この頃、欧州に留学したのが、日露戦争当時に総理大臣となる桂太郎です。桂太郎は、当初はフランスに留学する予定でした。ところがドイツの普仏戦争での勝利を知り「敗者からではなく勝者から学ぶ」と決心し、留学先を急遽ベルリンに変更します。それまでドイツ語を学んだ事のなかった桂太郎は、ドイツで毎日10のドイツ語の単語を覚えるのを日課としたそうです。日本は、陸軍改革の為にプロイセン軍人のクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルを招聘しました。彼は「日本でもモーゼル・ワインが飲める事」を日本行きの条件としました。後に日露戦争で輝かしい勝利を収める児玉源太郎は、メッケルを顧問として日本陸軍を改革しました。1904年に日露戦争が勃発した時、世界の誰もが日本には勝機が無いと考えていました。しかしメッケルは、「日本の陸軍には、私が育てた軍人がいる。特に、児玉大将がいる限り、日本がロシアに敗れる事は無い。児玉大将は、必ず満州からロシアを駆逐するであろう。」と断言したそうです。日露戦争では、メッケルの予想通りになりました。明治維新で近代化を進める日本は、ドイツを手本とし、ドイツから多くを吸収していきました。