特集:日独交流160周年

森鷗外のドイツ留学

広報部長 稲留 康夫

森鷗外は医学博士であり陸軍軍医、文学博士であり小説家です。日本の近代文学に夏目漱石と共に、大きな影響を与えました。その森鷗外は、若い頃、ドイツに留学しました。ドイツで大いに学び、それが後の明治の文豪の原点となりました。森鷗外のドイツ留学を振り返ってみたいと思います。森鷗外、本名森林太郎は、文久2年(1862年)1月19日、岩見国鹿足郡津和野町田村横堀(現島根県津和野町)で生まれました。森家は、代々、津和野藩の御典医を務める家系でした。 幼い林太郎も、藩医家の嫡男として、早くからオランダ語を学んでいます。そして明治5年(1872年)、10歳で父と共に上京し、官立医学校への入学に備えてドイツ語の勉強を始めました。この官立医学校では、ドイツ人教官がドイツ語で講義していました。林太郎は、明治7年(1874年)、僅か13歳の若さで東京医学校予科に入学しました。この東京医学校は、後に東京開成学校と合併して東京大学となりました。そして明治17年(1884年)、ドイツ陸軍の衛生制度の調査と衛生学を修める為に、国からドイツ留学を命じられました。東京大学医学部卒業生の中から初めての官費留学生でした。時に林太郎23歳の事でした。

留学を命じられた林太郎は、同年7月28日、明治天皇に拝謁しました。そして8月24日フランスの汽船メンザレエ号に乗り、横浜を出港し、10月11日には、ついにベルリンに到着しました。森鷗外の代表作の一つ「舞姫」の冒頭には、ベルリンに到着した時の主人公の感激が、次のように書かれております。「五十を踰えし母に別るるをもさまで悲しとは思はず、遥々と家を離れてベルリンの都に来ぬ。余は模糊たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力を持ちて、忽ちこの欧羅巴(ヨーロッパ)の新大都の中央に立てり。」この舞姫の主人公の台詞は、まさに留学を始めた時の林太郎の感激を表現したものだと思います。

ベルリンに到着した林太郎は、まず当時の日本の特命全権公使であった青木周蔵を訪れます。青木周蔵は、長州藩の出身で、やはりドイツに留学し、明治初期の日本とドイツの橋渡しをした偉大な外交官でした。その青木周蔵は、若い林太郎に「学問とは書を読むのみをいうのではない。欧州人の思想はいかに、その生活はいかに、その礼儀はいかに、これをさへ善く観れば、洋行の手柄は充分である。」と語りました。 

林太郎は、渡独した年から翌年の明治18年(1885年)の秋まで、約1年間ライプツィヒに滞在し、ライプツィヒ大学のフランツ・アードルフ・ホフマンの下で学びました。ライプツィヒには、ゲーテの名作「ファウスト」の舞台にもなったアウアーバッハス・ケラーの酒場があります。

林太郎は、ここでゲーテの「ファウスト」を日本語に翻訳する決意を固めました。ライプツィヒで学んだ後、今度は、ドレスデンに移りました。ドレスデン訪問の目的は、軍医として、ドイツ陸軍冬季軍医学講習に参加する事でした。ドレスデン滞在中の明治19年(1886年)の正月、林太郎は当地で開催された地学協会の催しにおいて、これまでにまとめた「日本家屋論」に関して、ドイツ語で講演しました。日本人がドイツで、ドイツ語で講演したのは、これが最初だと言われております。そして同年3月、ミュンヘンに移ります。ミュンヘンでの師は、ミュンヘン大学にドイツ初の衛生学講座を設立したマックス・フォン・ペッテンコーファーでした。林太郎がミュンヘンに滞在した頃、バイエルン国王のルードヴィヒ2世が、侍医ベルンハルト・フォン・グッテンと共に、南独のシュタルンベルク湖で溺死する事件が起こりました。この事は、林太郎にとり衝撃的な事でした。この事件が、やがて森鷗外の作品「うたかたの記」の材料となりました。ミュンヘン滞在中の武勇伝があります。 明治8年から18年(1875 – 1885年)にかけて日本に滞在し、ナウマンゾウの研究で有名な地質学者エドムント・ナウマンが「日本列島の地と民」と言う論文を発表しました。その内容に不満を感じた林太郎は、新聞アルゲマイネ・ツァイトゥングで反論を発表し、ナウマンの誤りを指摘しました。林太郎は以前、ドレスデンに滞在した時も、地学協会の催しにおけるナウマンの演説に反論し、卓上演説の中で、仏教に関するナウマンの誤解を指摘しております。

さて明治20年(1887年)、ドイツ留学の総仕上げの地、ベルリンに移ります。ベルリンでは、北里柴三郎の紹介で、ローベルト・コッホの衛生試験所に入り、研究に従事しました。ローベルト・コッホは、炭疽菌、結核菌、コレラ菌を発見し、近代細菌学の開祖と言われる偉大な医師であり細菌学者でした。林太郎がローベルト・コッホから与えられた研究テーマは「下水道のバクテリア」でした。ここで「日本に於ける脚気とコレラ」や「水道中の病原菌に就いて」などの論文をまとめています。

そして明治21年(1888年)、林太郎は約4年の非常に満たされたドイツ留学を終えて、帰朝しました。 時に林太郎27歳の時でした。森鷗外がベルリンに滞在した当時住んでいたルイーゼン通りのアパートは、現在ではベルリンのフンボルト大学が運営する「森鷗外記念館」となっています。この記念館は、1984年、森鷗外のドイツ到着から100年後を記念し、森鷗外記念室としてオープンしました。2011年6月22日、当時は日独150周年でしたが、御訪独された当時の皇太子殿下(今上陛下)も、この森鷗外記念館をご訪問されております。若き森鷗外の情熱を今に伝える記念館です。

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*ベルリン・フンボルト大学が運営する「森鷗外記念館」
 写真提供 / ベルリン森鷗外記念館